野球を引退して① 2018.12.18

晴れ。

前回のブログから4日。冒頭で書いたギックリ腰の状態は痛みの強さはほとんど変わらないのだが、ほぼ毎日整骨院で治療をして戴き、可動域は少しずつだが回復の兆しを見せてきている。最初の日はベッドから起き上がるだけで10分以上かかってしまったのだが、今日は痛いながらも1分以内には起き上がれるようになった。

1つ残念なのは、そのギックリ腰によって20日から予定していた漫画ひょうひょう!取材の旅を来月へスライドする事態となってしまったことだ…

話しのストックはあるし、ぶっつけ本番の旅だから誰かにアポを取っている訳では無いので迷惑をかけている訳でも無いのだが、年内のうちに取材は終わらせておきたかった… 一緒に旅をする虹河ラキちゃんの日程も壊したくないからね(汗) 約1か月後に行き直します。


では、今日の本題は今年で選手として引退をした野球についてである。

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野球に対する想いは、本当は原稿用紙100枚でも全く足りない程にあるし、今だって野球が好きなことに一切変わりは無い。

年内のうちに自分自身へケジメをつけるためにこの文章を書こうと思っていたが、年が変わる前に何とか間に合った。


今年で現役25年目。パニック障害で一切プレーを出来なかったことが1年と半年の2回、それぞれ社会人時代にあったので事実上のプレーは23年半分になる。丁度始めてから四半世紀なのでキリの良いところだと思うようにした。


野球バカの私だが、実は小学校3年生までは全てのスポーツの中で一番嫌いなものがこの野球であった。野球好きの父がグローブを買ってきて家の前で軟式ボールを使って無理矢理キャッチボールをやらせてきたのだが、軟式と言えどもある程度の硬さはあるので身体にぶつかるたびにワンワン泣いて父に怒られた。

宅地化の途上で今よりもずっと田舎であった当時は、子どもの遊びと言えば草野球オンリー。放課後になると高学年のガキ大将格の先輩を中心に空き地で野球をするのが日課であった(ドラえもんかよ(笑))。

仲間外れにされたくない私は渋々野球に付き合うものの、チーム分けで必ず後回しにされ、入ったチームからは必ずのように「え~~~。直樹はこっちのチームかぁ~~。」と言われた。本当に完全にのび太君状態だった。ドラえもんも居なかったから誰も助けてくれなかったしね(笑)

父からも仲間からも除け者にされて、ボールは身体に当たれば痛いだけだし、こんなにも嫌いなスポーツはこの世に無かった。放課後が怖かった。


転機が訪れたのは小学校4年生に上がる直前の春休み。まだまだ雪の残る北海道。

当時のインドア派の親友数人とファミコンをしていたのだが、ファミコンにも飽き「何して遊ぶ~?」なんて言いあったところでたまたま軟式ボールよりも更に柔らかいフニャフニャのボールとプラスチックバットがあって「これで野球ごっこをするかぁ」なんてことになった。

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この町内会の奥地にあった空き地が高校野球をするまで私にとっての「甲子園」であり「東京ドーム」となったのだ。

野球が苦手な仲間とフニャフニャのボールでルールなんて分からずに雪の上で遊んだあの日。

打っても三振をしても皆揃って笑いしかこみ上げてこなかった。ボールを全力で投げて、バットを全力で振るのが表現のしようが無い程に楽しかったのだ。

この日が無かったらきっと私は野球をプレーしていなかったと思う。今でも嫌いなままだったと思う。

「野球ってこんなにも楽しかったのかよ!!」

それを命で感じた松本少年とその親友達は、その日からファミコンは辞めて、雨の日も風の日も雪の日も、来る日も来る日も草野球に明け暮れた。

道具もフニャフニャのボールから軟式ボールとなり、プラスチックが金属バットとなり、指導者なんて居なかったが仲間内でどんどん上達していった。それだけでは物足りなくなり、母校小学校の野球同好会である「遠矢ファイターズ」に次々と入部していった。

ただ、私だけは入ることができなかったのだ…

実は当時心臓病があり医師から部活動へ入部することを禁止されていたのだ… 親友達が学校で野球談議に花を咲かせているのを横で聞いているのはとても辛かった。でも野球への熱い想いは一切消えることが無かったので、放課後は親友が野球同好会へ行く中、一人で寂しく帰宅し、自宅の前で黙々と素振りやシャドーピッチングをする日が始まった。

その後、入院を経て医師から同好会活動の許可を取り付け、親友達より大幅に遅れて遠矢ファイターズの一員となった。

当時から夜に絵は描いていたが、生活の中心は全て野球。同好会が休みの日も皆で集まってあの空き地で真っ暗で星が輝く時間となるまで草野球をした。当時は「プロ野球選手になりたい!」という明確な想いも持ち始めていたので、ライバルに差を付けるためにも帰宅後は台風の日も大雪の日も、インフルエンザになった日も自宅の前で毎日500本以上の素振り練習を日課とした。プラス、自宅で筋トレや念入りなストレッチも日課とした。虚弱体質で4年生まではいじめられっ子だったのに、身体が出来上がってくるにつれて誰も私をいじめてこなくなった。

その後もスイングがどんどん研ぎ澄まされていくのが嬉しくて楽しくて、「努力」なんて言葉は一切当てはまらない、ただ単に好きで好きで仕方が無いからバットを振るという毎日を送っていた。好きでやってるので「辛い」と思ったことは一度も無かった。現在、絵を描く時の気持ちときっと同じものだったと思う。周りから「無理し過ぎだよ!」と時々注意されるが、私にとっては野球にしても絵にしても一切疲れが無いのだ。好きな女性とデートをするような感じ。本当にそれに近い感じだと思う。なので一切無理はしてません!


中学・高校時代は現在小説で書いているのでブログにて細かく書くことは避けるが、高校2年生でパニック障害を発症するまでは本当にプロ野球選手になりたかったし、決して裕福な家庭では無かったので両親を野球で救いたいという想いも正直にあった。


ただ、高校2年生の2001年5月31日。地区大会で優勝した私達は全道大会へ進出し、全国の野球ファン達にも名高い北海高校と1回戦で対戦となった朝。その後の人生を変えるパニック障害を発症してしまったのだ…

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※写真は後輩たちが全道大会で円山球場にて試合をしているところ。


あの時は何が起きたのか理解できなかったが、その後も続く発作で2年生・3年生と2年連続で打率5割をキープすることはできたのだが、ろくにご飯を食べることも出来なかったし、それ以上の高みへ行くことは不可能だと悟った。

「夢のプロ野球選手は俺には無理だった。でも、もう一つの夢であった漫画家には絶対になろう!」

そう決意して、両親の反対を押し切り、東京の芸大へ推薦で行ける話もあったのだがそれも拒否し、札幌の漫画を学べる専門学校へ進学することにした。

理由として北海道が大好きだったし、東京の大学へ進学したところでパニック障害の自分が対応することができない不安もあった。ただ、もう一つ大きな理由があって、その専門学校には野球部があり絵を学びながら再び野球をすることが可能だったのだ。

そして2003年の3月に札幌へ移住。進学。

しかし待ち受けていた現実は思っていたものと全く違うものだった…



一旦話を切ります。

短く短く書こうと努力したが、あまりにも思い出が多すぎて最初の10年分だけでかなりの文章量となってしまった…(汗)

書く方も読む方も疲れてしまうので、続きは近日中に「後編」を作って書くことにします。


私の人生。特に野球は決して思ったように物事が進まず、いつも蛇行ばかりして25年の時が流れていきました。良いことも悪いことも沢山ありましたが、野球を通して得たことは今後の人生で必ず生きていくと信じています。

では、後編で松本の野球話にもう少々お付き合いください。


今年もいよいよ2週間を切りました!最後まで全力投球で頑張ります!
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by naokiblog | 2018-12-18 21:09 | 野球 | Trackback | Comments(0)

画家・漫画家のM.ナオキ(本名:松本直樹)が、自分の作品を紹介したり温泉や旅のことを書いています。Webコミック雑誌「てんてる」にてVTuber虹河ラキと北海道を旅する漫画「ひょうひょう!」連載中。


by 画家活動時:松本直樹 漫画家活動時:M.ナオキ
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